「仙人が女人を背負って山を降る」話は何を伝えているか

「仙人が女人を背負って山を降る」話は何を伝えているか 今昔物語

先回、「仙人が女人を背負って山を降りる」というお話をブログに上げました。 すると、ブログ管理者から「だからどうだというのか。」という質問があり、私はコメントを書くともともとのお話のニュアンス、ふくらみが損なわれてしまうと答えました。

 しかし、考え直して、私がどうしてこの話をブログで紹介したか、説明します。

 先ずこの話で興味をそそわれたのは、「さて、痩せさらばえて骨と皮ばかり、魂は一体どこに隠れているのだろうかと思われる。」という箇所です。「魂は一体どこに隠れているだろうか」が原文ですが、「心は一体どこに隠れているのだろうか」というほうが私の問題意識にぴったりします。というのは、魂と心はよく似ていますが、やはり違う概念です。広辞苑によると、魂とは「動物の肉体に宿ってこころの働きをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するものとされた」とあり、一方、心とはもともと人間の内臓の通称であり更に精神の意味に進んだとあり、人間の精神作用のもとになるもの、知識・感情・意志の総体とあります。心のほうが身体との関係、一体性が観念でき、死んだら心の働きもなくなると思われます。一方魂は身体から離れて存在する可能性のある概念で、死んでも魂が残る可能性があります。したがって、「さて、痩せさらばえて骨と皮ばかり、心は一体どこに隠れているのだろうか」の方が、身体と精神作用の関係について問題提起するのにふさわしいと思います。心の基盤となる身体が痩せさらばえて骨と皮ばかりになったら、心はその本来の機能を果せるのでしょうか。

 この物語では、仙人の神通力と人間の性欲がテーマとなっていますが、神通力も人間の性欲も心の作用がなければあり得ません。

 仙人は女人に対する色欲により神通力を失いました。千年も修行してきたのですから、すごく年を取った老人です。一般的に、老人になると性欲も減退して行くと思われます。この点、参考になるのは、旧約聖書に出てくるダビデ王の次の話です(列王記 上 第1章)。

ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まれなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめをを探し求めて王に侍らせ、王の付添とし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを探し求めて、シュラナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添となって王に仕えたが、王は彼女をしることはなかった。

「王は彼女をしることはなかった」というのですから、ダビデ王は老人なり、既に性欲を喪失していたこと物語っています。

 一方仙人は、千年も修行してきたのですからダビデ王より遙かに年を取った老人であったはずです。その仙人が、「ちょっとその肌に触れさせて貰いたい」と頼み、肌に触れました。

 肌に触れた代償として神通力を失いました。神通力を失うことは仙人は大きな喪失感があったはずです。

 仙人は、その後、女人を背負って都まで背負って行きました。仙人は沢山の見物人がいるなかを、「脛は針のように細く、錫杖を女人のお尻にあて、女人はずり下がってくれば揺すりあげながら、国王の宮殿まで届けました」とあります。おそらく、仙人は女人の身体のぬくもり背中で充分味わっていたはずです。衆人の軽蔑という恥をさらす屈辱に十分見合うものでした。

 ただ、ダビデ王は、若い女をしることはなかったけれども、死ぬまでの間、後継者をソロモンにするかアドニアにするかという権力闘争を采配し、ソロモンを後継者に指定するという権力欲を充足して、死んでいきました。旧約聖書には「ダビデはその先祖と共に眠って、ダビデの待ちに葬られた。ダビデがイスラエルを治めた日数は40年であった。すなわちヘブロンで7年、エルサレムで33年、王であった。このようにしてソロモンは父ダビデの位に座し、国は固く定まった。」(列王記上 第2章)と記録されている。

 一方、仙人は、都から奥山に戻っていったのですが、神通力は既になくなっていたので、徒歩で帰らなければなりませんでした。また山奥に帰ったのち、何を生甲斐に命を長らえたのでしょうか。悲惨な人生の終末を迎えたはずです。

 ただの人になったとしても、神通力を持った聖人の人生と変わりがないか知れません。但し、既に、千歳を超えて、痩せさらばえて骨と皮ばかりの老人には、女性は見向きもしないと思われます。財産はありません。権力もありません。そうであっても、女人の肌に触れる機会があったことは、人間に生まれた以上良かったと私は思います。

名古屋弁護士 伊神喜弘

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