数十年前の新聞にこういう記事が出ました。年少の小学生の2人のA君とB君が、先生の前であることで決着をつける行動をした一部始終を報道したものでした。まだ年少の少年の間のできごとですから、新聞で報道したのもどうかと思いました。しかし、敢えて新聞記者が報道しようと思ったのは、A君とB君の行動が人の心に響き、普遍性がある、報道する価値があると考えたからではないかと思っていました。
できごとのいきさつは、あるクラスの級友同士が喧嘩を始め、それを見たA君が喧嘩をとめにはいったところ、喧嘩を止められたB君がA君に殴りかかったそうです。どういう訳か、A君は殴られたままであったので、級友が先生に急を知らせにいったところ、先生がその場に駆けつけてB君を制して事情を聞いたところ、B君が「このままでは気が済まない。」といい、A君も「僕も引き下がらん。」と双方のにらみ合いとなりました。そこで、先生が、お互いそんなに気が収まらないなら、決着をつけろといったところ、B君がA君に殴りかかり、A君は数分か殴られるままにしており、入院する大怪我をしたという経過をたどったということです。
この話で、先ずこころに響くことは、A君が終始無抵抗で、殴られるままにしており、怪我までしたというところにあります。A君がなぜこのような行動を取ったのか。もともとA君はいじめられっ子で、保護者が心が強い子に育てようと空手教室に通わせたところ、空手を習う以上、絶対に人に手を出していけないと教室で指導されていたからのようです。仮にそうだったとすると、この少年の決意には感心させられます。
ただ、私が思うに、A君の行動には少し矛盾するところがあります。それは、B君が「このままでは気が済まない。」といったさい、これを受けて、A君が「僕も引き下がらん。」と双方のにらみ合いとなった点です。なぜ、A君は引き下がらなかったのか。私が推測するに、A君の心に怒りが生じており、その怒りを抑えることができなかったからだと思います。A君は終始無抵抗でしたが、こころの深いところで、B君を挑発していた可能性があります。
したがって、神様の目線では、A君とB君とはイーブンとなります。
先生が、お互いそんなに気が収まらないなら、決着をつけろといった、というのは、大きな落ち度がありました。なぜなら、殴るという行為と心の怒りによる挑発とでは、決着つけるについて同じ手段ではないからです。B君はどう決着するか分からなかったはずです。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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