ある人が、私に「お釈迦様と阿弥陀様とは同じか、違うか」という質問をしてきました。そこで、これに答えようとし、このブログを書くことにしました。
結論からいうと違います。
お釈迦様は、現在世界に広く伝播している仏教の開祖で、西暦前560年ころ生まれ、同じく480年ころ、80歳でなくなった実在の人物です。一方、阿弥陀様は、私たちが現在住んでいる世界(娑婆世界といいます。)とは別の世界である、西方浄土に居られそこで教えを説いておられる仏様です。つまり、お釈迦様も阿弥陀様もともに仏様ですが同じ仏ではなく違う仏です。
現在の私たちはキリスト教の一神教の影響もあり、仏様についても唯一の存在ではないかと思いがちですが、仏教では仏さまは、もともとお釈迦様以外にも複数おられることは当然の前提としています。
一般に、お釈迦様が修行のあと35歳になって、①物事は互いに繋がりがあり因果関係がある(縁起説)、②物事は変化しており変化しないということはない(諸行無常)ということを悟って、これを根本教理として教えを広げることを宣言したのが、仏教の初めとされています。しかし、実は、お釈迦様は仏として最初の仏ではなく、その前に過去に7人の仏が存在していたとされています(但し、学問的に仏として実在が確認で来ているのはお釈迦様だけです。)。
したがって、お釈迦様以外に仏様がおられたからといって何の不思議もありません。
次に問題となるのは、お釈迦様が、その生前に阿弥陀様のことに言及しているかですが、直接には言及していないようです。
もともと、お釈迦さまは、人間が生まれて生まれ変わり変転なく、生まれる、年をとる、病気になる、死んでいくという(生死流転)人間存在を苦しみと捉えて、この生存の流れから離脱することを理想としました。この点をはっきり説いているのが、金剛般若経の次の一節です(中村元、紀野一義訳注 般若心経・金剛般若経 岩波文庫 44、45頁)。
およそ生きもののなかまに含められる限りの生きとし生けるもの(一切衆生の類)、卵から生まれたもの(卵生)、母胎から生まれたもの(胎生)、湿気から生まれたもの(湿生)、他から生まれず自ら生まれたもの、形のあるもの(有色)、形のないもの(無色)、表象作用のあるもの(有想)、表象作用の無いもの(無想)、表象作用のあるものでもなく(非有想)表象作用の無いものでもないもの(非無想)、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、〈悩みのない永遠の平安〉(無余涅槃)とい境地に導き入れなければならない。
しかし、この教えは、この世の中で生々流転すると考えている庶民には余りにも高邁な教えで、一般庶民にはついていけません(現在でも、自分が死んだらまた人間なり動物に生まれ変わると思っている人が以外に多くいます。また、悪いことをした人が幸福な人生を享受し、一方悪いことをしないのに不遇な人生を送らざるを得ないことに納得できないと感じている人も多い。)。そこで、庶民を救う方便(便法)として、お釈迦様は「私に帰依し、私の教えを守り、僧侶を尊敬すれば、死後には天上界に生まれる、安らかに生活できるようになる。」と説きました。そして、「佐々木憲徳著 西方浄土のお話」(百華苑刊)の48、49頁には、仏道修行に精進した者は、死んだ後(後世)に天上界に生まれると、阿釈迦様が説かれたと阿含経に記載があると紹介しています(増壱阿含経第24巻、33巻)。
ここにいう天上界として、お釈迦様以外のいろいろな仏様が住んでおられる世界があって(例えば、薬師如来には浄瑠璃世界)、死後その世界に生まれ変わるという信仰が生まれてきたようです。こうした仏様はたくさんおられ、従ってその世界もたくさん存在するのですが(お釈迦様は「奇光如来の世界」に生まれ変わるとといていた記載が増壱阿含経第29巻にあるそうです。)、その中で、阿弥陀様の世界がとりわけ庶民の信仰対象としてクローズアップされのです。
なぜ、阿弥陀様の信仰がクローズアップされたかその理由ですが、研究によると、その理由はよく分からないものの、昔から西方の楽土があるという信仰があったようで、この信仰が阿弥陀様の西方浄土ということになったようです(前「佐々木憲徳著 西方浄土のお話」46、47頁)
二、三、阿弥陀様の西方浄信仰について知っておいた方がいいことについてコメントします。
【阿弥陀様の西方浄信仰について覚えておくべきポイント】
-第1点-
阿弥陀様はもともと法蔵菩薩という修行者でした。法蔵菩薩は計り知れない昔に世自在王仏という仏の在世中に、その仏の教えを聞いて、出家して法蔵比丘の名乗りました。そして、世自在王仏の教えのままに道を修めて、清らかな仏の国を建て、生死に巷(ちまた)に苦しんでいる人を救いたいという誓願を立て、長期間修行して、仏となったものです。その仏が阿弥陀様です。
従って西方浄土は法蔵菩薩がいわば主観的に立てた世界であり、物理的、客観的に把握し,確認できる世界でないことになります。卑近な例で説明すると、私の父母は既に死亡していますが、日々父母に守られているような気がします。おそらく、父母が子どものことを思っていたからだと思いますが、私の感じているのは父母が主観的に作った世界をあたかも実在するかのように感じているからではないでしょうか。阿弥陀様の西方浄土は、これらと同様のもので大規模な世界なのでしょう。
※ 人間の寿命が100年足らずですので、この法蔵菩薩が修行により阿弥陀様になったという話そもそも科学的に成り立ち得ないこと、阿弥陀様がその専属世界を建設したという話も科学的に成り立ち得ないこはここでは不問にします。
なぜ、こんないわば荒唐無稽な話が、我々にとって実在的に語られ、意味のあることなのかついては重要な問題でであり、別に機会にお話しします。
-第2点-
では、私たちは死後阿弥陀様に西方浄土に生まれて、そこで一体何をしているのでしょうか。それは、前述した金剛般若経に説いている〈悩みのない永遠の平安〉(無余涅槃)とい境地になるよう修行しているのです。
この点、お経には下記のように明記されています。
「また、次にシャーリプトラよ、無量寿如来(=阿弥陀様)の仏国土に生まれた生ける者どもは、清らかな修行者であり、〈覚りを求める気持ち〉から退くことのない者であり、〈なお、一生だけこの世に繋がれた者〉である。」(中村元・早島鏡正・紀野一義訳注 浄土三部経 下 岩波文庫 82頁)。
〈なお、一生だけこの世に繋がれた者〉という言葉は重要です。なぜなら、人間はこの世界で一旦死んで、あの世である西方浄土に生まれ変わりますが、その命は永遠ではありません。西方浄土でもやはり死んで行くのですが、その時点では〈悩みのない永遠の平安〉(無余涅槃)の状態となるのです。即ち、生死流転から離脱するわけです。
-第3点-
最後の大問題は、阿弥陀様は神様ではありません。あくまで人間の生存形態の一種に過ぎません。従って、お釈迦様が80歳で死亡したように阿弥陀様にも寿命があるということです。阿弥陀様の寿命は非常に長いものですがやはり最後には亡くなるはずです。
すると、阿弥陀様が死んだ後には、一体人々はどのようにして救済されるか。仏教の立場からいうと、生死流転の苦しみから離脱できるかと言うことになります。
この点、親鸞著の教行信証に次の記載があります(聖典意訳 教行信証 大遠忌記念 聖典意訳編纂委員会 編集 大日本印刷株式会社刊 277頁~280頁)。
問うていう。すでに報と言うならば、仏の報身と言う者は常住であって、とこしえに消滅の相はないのである。それではなぜ《観音授記経》に、「阿弥陀様にも入滅なさる時がある」と説かれているのか。この一義をどのように通釈すればよかろうか。
答えていう。この入滅・不入滅といういわれは、これはただ仏の境界でいわれることであって、なお、声聞・縁覚・菩薩などの浅い智慧では、うかがい知るところではない。
この記述以降に、親鸞は阿弥陀様の死亡について説明をしていますが、私は理解できていないので、残念ながら説明できません。心ある人は前記引用文献を読んで下さい。
-第4点-
阿弥陀様が死亡してしまったらその後には、どうして、〈悩みのない永遠の平安〉(無余涅槃)の状態となることができるでしょうか。
自分一人の力で、修行して覚を開く道は残されています。しかし、修行するに障害のない西方浄土という場所を提供し且つ丁寧に修行を指導してくれる仏様である阿弥陀様はおりません。ただ,阿弥陀様の寿命は極めて長いので、当面は心配ありません。
-第5点-
最後に、阿弥陀様の教えを説いた大無量寿経から、人間の生死流転の実相の記載を引用します(中村元・早島鏡正・紀野一義訳注 浄土三部経 上 岩波文庫 96、97頁)。
かれらは恩にそむき、義理に違い、(人の親切に)報いようという心がない。貧窮し困苦欠乏しても得る手段というものがない。かれらはほしいままに人のものを奪い、ほしいままに使い果たす。こうしたことを繰り返している間に習慣となって、得るにしたがって口腹を賑わし養うのだ。かれらは酒を飲み、美食を摂り、飲食に節度がない。かれらはほしいままに放蕩し、生まれつき愚かなくせに勝手な振舞いをするので、心のままに誰とでも衝突するのだ。かれらは人間らしい感情を知らず、他人を力で押さえつけようとする。人が善いことをすれば憎み、嫉妬する。義理もなければ礼儀もなく、自分自身を反省することもない。自らうぬぼれてあくまで自己を主張するばかりであるから諫めようがない。父母・兄弟・妻子や親族のものたちが生きてゆくためにの衣食などの資材を持っているか、いないかなどということは全く心にかけたことがないのだ。父母の恩は考えたことがなく、師や友人に対する義務について考えず、心は常に悪念を思い、口は常に悪意ある言葉を語り、身は常に悪事を行って、善といわれることはかって一度たりともしたことがない。かれらは古の聖人たちや人たちのの説く教えを信ぜず、道を実行すれば人格の完成に至り得るということを信ぜず、死んで後に魂は更に次の生を受けることを信ぜず、善は善をもたらし、悪は悪をもたらすということを信ぜず、尊敬されるべき人を殺傷し、修行僧たちの間に争いを起こさせようとし、父母・兄弟・親族の者たちを殺傷しようとさえするのだ。父母・兄弟・妻子でさえもかれらを憎んで死ねば良いと思うようになる。このような人間の心や意志はみなこのようである。かれらは愚かであり、無知であり、道理に暗いにもかかわらず、自分では智者であると思い込んでおり、しかも、人間の生がどこから来て、どこに去るかということさえも知らないのだ。かれらは人のなさけということを知らず、人の言うことに耳を傾けず、天地の道に背いているのだ。このような生き方をしているにもかかわらず、、かれらはまぐれ当たりの幸せを希望し、長生きすることを求めたりするけれども、死は待ってくれないのだ。慈悲の心をもってかれらを教え諭して、善を念ずるようにさせ、生死や善悪の結果が必ず来ることを知らしめようとしても、かれらはこれを信じようとはしない。うら親切にかれらのために話しても、何の助けにもならないのだ。かれらの心の扉は閉ざされたままで開かれることがない。命が終わろうとする頃に後悔の念と恐れとが次々とおこってくるのであるがあらかじめ善をなしていないのであるから、最後になって後悔したとて間に合わないのだ。
名古屋弁護士
伊神喜弘
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