以前、今昔物語の一角仙人の話を取り上げました。
※参考記事
仙人が女人を背負って山を降る
「仙人が女人を背負って山を降る」話は何を伝えているか
それは、「一角仙人、女人を負うて山より王城に来たる語 第三」(今昔物語集 8 天竺部 池上洵一 訳注 東洋文庫)をもとに、池上氏の現代訳をそのまま引用せず、私が話しの筋を纏めたものでした。
勿論、もともとの今昔物語自体は、もう千年以上も前に編纂されたものですので、著作権侵害にはならないことは明らかですが、その現代訳は著作権を侵害するかもしれないとおそれたためでした。
著作権法はその著作権法2条1項11号で二次的著作物を定義しています。すなわち、「著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。」が二次的著作物で著作権で保護されています。今昔物語の現代訳が著作権法にいう「翻訳」に該当するかが問題です。
そこで、改めて調べて見ました。「一般には、日本語で表現された小説を英語など外国の言語で表現し直すことが、ここにいう翻訳にあたる。」「同じ日本語の範囲に属するとされる、わが国の「古典語」の現代口語訳に関しては微妙な問題もある。「古典語には古典語独自の表現形式があり、現代語とは大いに赴きを異にするものであるからとの理由で翻訳の範囲に含める主張もなされる。同様に同一国語のうちの他の語法に変える場合、例えば源氏物語の現代語の如きもこれを翻訳と解してよい」(金井重彦、小倉秀夫編著 著作権法コンメンタール 【上巻】 東京布井出版刊 69頁)との説明がありました。
ところが、こと今昔物語の現代訳に限っていうと、千年以上前の編纂物とはいえ、原文が漢文書き下しに近い文章ですので、原文と現代訳ははぼ1対1の対応関係があります。このような現代訳は二次的著作物としての著作権の保護を及ぼすのには疑問があります。というのは、そもそも著作権の保護を受けるためには、「思想又は感情を創作的に表現」したものでなければなりませんが(著作権法2条1項1号)、今昔物語の現代訳は古文である今昔物語を1対1にいわば機械的に変換しているだけであり、現代訳には原文に付加された「思想又は感情を創作的に表現」が見当たらないからです。
以下にこの点を確認するために引用します。
(原文)
深キ山ニ行ヒテ、年多ク積ニケリ。雲ニ乗リテ空ヲ飛ビ、高キ山ヲ動シテ、禽獣ヲ随フ。而ル間ニ、俄ニ大ケサナル雨降リテ道極メテ悪シク成タルニ、此ノ仙人、何ナルニカ有リケム、思モアヘズ、歩ヨリ行キ給ヒケルニヤマ峻クシテ不意ニ踏ミスベリテ倒レヌ。
(翻訳文)
永年深山で修行し、雲に乗って空を飛び、高い山を動かして鳥獣を従えるなどしていた。
ところが、ある時のこと、にわかに大雨が降って道がひどく悪くなったが、この仙人はどういうわけか、意外なことに徒歩で歩いていて、急な山道で不覚にもすべりころんで倒れてしまった。
ただし、一角仙人の話は昔から人口に膾炙されていたようです。
日本古典文学体系22 今昔物語集 一 348頁~352頁には、今昔物語の一角仙人には原典が有るとしてその原典の文章を上げていました。それを次に引用します。
過去久遠世時、波羅奈国山中有一仙人、以仲秋之月 於澡盤中小便、見鹿○麀会合、淫心即勤精流盤中 麀鹿飲之、即時有身 月満生子、形類如人、唯頭有一角、其足似鹿、鹿当産時、至仙人庵辺而産、是子是人、以付仙人而去、仙人出時見此鹿子、自念本縁、知是己児、取已養育、及其年大、勤教学問、通十八種経、又学坐禅、行四無量心、得五神通」
(遠い昔、インドのハラナという国に一人の仙人がいました。秋の仲秋の名月の夜、仙人が大きな盥で身体を清めていた際小便をしました。偶々、雌鹿と出くわしました。仙人がその雌鹿に淫らな心を起こし、精液がその盥に流れ出ました。雌鹿が苑の盥の水を飲むと、直ぐに妊娠しました。月が満ちて子どもが生まれましたが、その形は人間のようで頭に一角があり、足は鹿の足に似ていました。その鹿は、修行をしていた仙人の小屋に行って、子どもを産みその場を立ち去りました。仙人はこれは自分の子だとその因縁を悟り、育てましたが、その子は大きくなると、学問に励み、坐禅をし、四無量心を行い、五神通力を得ました)
※四無量心(宇井白寿著 仏教辞典 422,423頁)
iよく楽を与える慈無量心、
ⅱ苦を抜く悲無量心、
ⅲ人が苦を離れ楽を得るのをみて喜ぶ喜無量心、
ⅳ以上の三心をを捨てて心に執着せず、怨みを捨てる捨無量心
※五神通(宇井白寿著 仏教辞典 279頁)
不思議なるを神といい、自在なるを通という。不思議自在の用に五種あり。天眼通・天耳通・他心通・宿命通・迅神足通
今昔物語 巻第五 天竺・仏前 「一角仙人、女人を負うて山より王城に来る語第三」に出てくる一角仙人は第一代の仙人の子どもということになります
但し、出生の因縁については触れていません。
神通力を得たのちの女人の色気に迷ってただの人になった話です(①龍王を壺に閉じ込めた、②雨が降らなくなった、③王様が女人を差し向けた、④一角仙人の肌に触れて神通力を失った、⑤龍王が壺からでて雨が降った、⑥一角仙人が女人を王城まで背負って送った)。
一角仙人の話は、謡曲にもなっています(日本古典文学41 謡曲集下 249頁)。謡曲の一角仙人では、一角仙人が鹿の腹からうまれたとしていますが、それ以上に原典の仙人と雌鹿の話は出てきません。
また、今昔物語に出てくる「一角仙人が女人を王城まで背負って送った」話も出てきません。
私としては、神通力を失ってただの人になった一角仙人が恥をされして女人を王城まで送り届け、一人山に帰って行くところが好きですが、謡曲は、修行した仙人が女色に迷うことをテーマとしておりつまらないと思っています
第二次著作物には、翻訳の外に翻案があります。
翻案について、最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁は次の様に判示しています。
言語の著作権の翻案(著作権法27条)とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接監督することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして、著作権法は、思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号」参照)、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイディア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのが相当である。
一角仙人の原典、今昔物語の一角仙人そして謡曲の一角仙人について、翻案の成否を考えることは意味があります。
謡曲の一角仙人が今昔物語の、翻案に当てはまるか考えると、到底翻案に該当しないことは明らかと思っています。ただし、最高裁判決に即しての説明は、依拠性はともかくとして、①今昔物語におけるaアイディアと表現の境界、bそれを踏まえての表現上の本質的特徴、②謡曲における具体的表現の修正、増減、変更等を説明して翻案でないことを説明することは、現段階の私では力に余りますので後日とします。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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