先回、一角仙人と著作権と題して、お話したさい、一角仙人の話は人口に膾炙されているといいました。
私が直接読んだものは以下の4つです・
1 大智度論巻17
2 今昔物語集 8 天竺部
3 太平記巻37
4 謡曲
1、2については、既にブログで紹介しました。3、4については、追ってこのブログで紹介します。
著作順序は、1、2、3、4です。
今昔物語、太平記、謡曲の物語は、昔、一角仙人という頭部に角を一つある仙人がいたこと、その仙人は神通力をもっていたこと、あるとき山で雨で濡れていた地面を滑って転んだこと、転んだ原因が雨にあるとして雨を降らせる龍王の箱に閉じ込めこと、国王が仙人の神通力を失わせるために美女を仙人のもとに遣わして女色の惑わせて神通力を失わせた、という物語となっています。
参考記事
仙人が女人を背負って山を降る
仙人が女人を背負って山を降る」話は何を伝えているか
大智度論の物語は、一角仙人の父親である仙人が修行中であるにもかかわらず淫乱な心を生じたときの体外にでた精子をたまたま飲んだ牝鹿が妊娠し生まれたのが一角仙人だという因縁、父親の仙人が一角仙人を自分の子だと観念して大事に育て、その子も大きくなるにつれて父親の仙人の期待に応えて、学問に励み、坐禅をし、四無量心を行い、五神通力をえた、という話であって、一角仙人が女色により神通力を失うに至る話はありません。
一方、今昔物語には一角仙人の出生については全く触れていませんが、太平記には大智度論とほぼ同じ出生の因縁を物語っています。謡曲は単に「鹿の胎内に宿り出生した」と触れているだけです。いずれも、一角仙人が女色に迷い神通力を失った経過を中心して話を進めております。
ただし、今昔物語と太平記では、国王が仙人のもとに美女を遣わすアイディアを思いつく経過に、違いがあります。今昔物語では「どの様な聖人であっても女色を好まないものはいない」との一大臣の上申を採用したとありますが、太平記では、「長生不老不死の術を修得したとはいえ、十二因縁を観じ悟る点において、未だに不足のところがあったからこそ、道で滑って、怒る心が出たのであろう。」と迷いの心が残存しているから女色にも迷うはずだと、ある賢い臣下の助言を採用したとあります。
大智度論、今昔物語集、太平記、謡曲の全てで、一角仙人が神通力を持っていたとし、その神通力が女色により失われたと物語っていますが、大智度論及び太平記の一角仙人は、四無量心乃至十二因縁を観じていたとしており、神通力のみの仙人でなかったとしている点で大きな違いがあります。
太平記には、話の最後に、「其一角仙人ハ仏ノ因位ナリ。その淫女ハヤシュダラニヨナリ。」と結んでいます。つまり、一角仙人はゴータマ・ブッダの前世の一形態であり、一角仙人の神通力を失わせた美女はその妻ヤショーダラーの前世の一形態というのです。
大智度論の話が最初の話で、後の今昔物語、太平記、謡曲の話は、大智度論の話、若しくは後の著作物はそれ以前の著作物(例えば太平記や謡曲が今昔物語というように)に触発されて書かれたものと考えられます。著作権は著作者の生前と死後50年間その権利が続きます。一角仙人の話は、いずれも遠い昔に著作されたもので、著作権の権利を考える必要はありませんが、仮にこれらの話が著作されたのが著作権の権利が存続する期間と仮定したとき、著作権法にいう翻案となるか考えて見たいと思います。
著作権法はその著作権法2条1項11号で二次的著作物を定義しています。すなわち、「著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。」が二次的著作物で著作権で保護されています。第二次著作物には、翻訳の外に翻案があります。(但し、第二次著作物である翻訳や翻案には現著作物の著作権が及びます。したがって、翻訳や翻案するには原著作権者の同意が必要です。)
翻案について、最高裁平成13年6月28日第一小法廷判決・民集55巻4号837頁は次の様に判示しています。この判例は先回のブログでも紹介しました。
言語の著作権の翻案(著作権法27条)とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして、著作権法は、思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号」参照)、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイディア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのが相当である。
(大智度論と、今昔物語、太平記、謡曲との関係)
大智度論の話は、一角仙人の出生の経過と出生後の修行とその成就を物語るものであり、そこで話が終わっていますが、今昔物語集、太平記、謡曲の話はむしろ、いずれも一角仙人が修行後、女色に迷い神通力を失う話であり、同一性を認めるのが困難であり、翻案と考える余地はないと思います。
一方、今昔物語集と太平記、謡曲の関係を考えると、太平記、謡曲は今昔物語の翻案と考えられます。なぜならば、今昔物語、太平記、謡曲の物語は、ともに、前に申し上げたように、①昔、一角仙人という頭部に角を一つある仙人がいたこと、②その仙人は神通力をもっていたこと、③あるとき山で雨で濡れていた地面を滑って転んだこと、④転んだ原因が雨にあるとして雨を降らせる龍王の箱に閉じ込めこと、⑤の国王が仙人の神通力を失わせるために美女を仙人のもとに遣わして女色の惑わせて神通力を失わせた、という表現と順序について同一と考えられ、いってみれば、今昔物語の話が、太平記、謡曲の物語にも再生されているからです。
ただ、表現と順序について同一であり、太平記、謡曲の物語が今昔物語の物語のいわば再生と考えられるとしても、太平記、謡曲の物語に今昔物語には見られない新しい創作性がなければ翻案とは言えません。今昔物語の話の表現についt、その具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現されていなければならないからです。
そこで、この点を検証します。
(太平記における今昔物語に付加された創作性)
そして、太平記については、⑤の国王が仙人の神通力を失わせるために美女を仙人のもとに遣わして女色の惑わせて神通力を失わる経過について、大臣乃至臣下の上申内容が2の今昔物語では単純に聖人でも女色を好まないものはいないというのに対し、太平記では、一角仙人が十二因縁を観ずる状態になっていたのに、転んで怒りを生じた点に着目しそれに基づいた女色による堕落の誘引手段を表現している点に(怒りを生ずるということは煩悩がまだ残っている=女色におぼれる可能性があるという論理である)創作性が認められます。また、一角仙人を単なる神通力を持つ仙人というのではなく十二因縁を観ずるという悟りを開いた(或いは悟りを開く寸前の)仙人として表現し、話の最後に堕落した一角仙人とかどわかした美女をブッダとその妻の前生と位置づけた表現をしている点でも、今昔物語に新しい創作性を付加していると考えられる。
※十二因縁
ⅰ 無明(過去世に無限に続いてきている迷いの根本原因である無知)
ⅱ 行(過去世の無明によって作る善悪の行業)
ⅲ 識(過去世の業によってうけた現世の受胎の一念)
ⅳ 名色(胎中における心と体)
ⅴ 六入(胎内で整う五根と意根)
ⅵ 触(出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみある)
ⅶ 受(苦・楽・不苦不楽、好悪を甘受する感覚)
ⅹ 有(愛受によって種々の業を作り未来の結果を引きおこす働き)
ⅺ 生
ⅻ 老死
過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触受)、現在の因(愛・取・有)、未来の果(生・老死)という二重の因果を示すものとして。これを三世両重の因果という。
(中村元、紀野一義訳注 般若心経 金剛般若経 岩波文庫 29,30頁)
※縁覚、独覚
ブッダの教えや指導がなくて、一人で、十二因縁を観じた修行者を縁覚、独覚といいます。太平記によると、一角仙人は十二因縁を観じていたというのであるから、縁覚、独覚ということになり、単に神通力を持つ仙人とは違うことになります。
(同謡曲における創作性)
謡曲は帝王が使わした美女が、一角仙人をどのように女色におぼれさせたかその経過を非常に詳しく表現している点には(むしろこの点に力点を置いている。)、今昔物語に新し創作性を付加しており、いわば演劇性が前面に出された表現が多く、翻案といえます。前ブログで、謡曲は今昔物語の翻案とは到底考えられないといいましたが訂正します。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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