戦後のいろいろな思想家のなかで、私が一番影響力のあった思想家は誰かといえば私は丸山真男と思っています。本当はどうしてそうであるかきちんと筋道をたて、ある程度根拠となる文献を提示して、説明すべきです。しかし、いざ書こうとすると、自分が考えている筋道自体曖昧で、ましてや根拠となる文献の提示は到底できない自分を見つけました。
このブログを書くにつき、「日本の思想」「『文明論之概略』を読む」(岩波新書)を目の前に置いています。でも、的確な引用はできません。残念です。
丸山真男はその都度提起されてくる政治課題について、国民の間に対立があるときいずれが正しいのかを直接には答えようとはせず、われわれ日本に暮らす人々の考え方のあり方を日本の過去の歴史、伝統の分析に立脚して、検証し問題点を提示してきました。この丸山真男の努力が、この日本に静かに根付いてきたと思います。一言でいうと、政治過程において、日本が背負ってきた歴史や伝統の負の面を除去した民主的手続の形成です。民主的手続の形成は単に制度的側面だけで実現されるものではなく、国民の意識の向上によって実現されます。政治的な左右立場を問わずに、丸山真男は極めて大きな影響を与えました。
それにつけても思い出すのが、大学時代の自治会選挙で守屋という人が自治会長に当選したことです。当時(1965(S40))の東大教養学部(駒場)の学生自治会の政治的党派は民主青年同盟系と全共闘系が2大勢力であり、その影響力は絶大で、その間にいわゆる無党派層の学生がうろうろとして存在しているという構図でした。学生自治会の議事事項は民主青年同盟系の学生の出すものと、全共闘系の学生の出すものが常に対立し、これが議決されるとき無党派層の学生の票によって、どちらかが過半数をえて議決され執行されるものでした。
この2つの党派は互いに議事事項について一体どちらが正しいのかと激しく争っていました。
このような学生自治会のなかで、守屋という学生が丸山真男の思想を基にした自治会活動をすべきだと訴えて、自治会長に立候補し当選してしまいました。守屋さんは、当時、学生自治会が課題としていた事項について、民主青年同盟系の学生や全共闘系の学生のようにどちらが正しいのかという価値論争はすべきではないと訴えていました。民主的手続過程の形成こそ重視すべきだといっていたと思います。当時の学生自治会は政治課題を主に取り上げ(具体的には沖縄返還、日韓条約、安保条約)、政治課題をめぐってのどっちの主張が正しいかという論争でした。それも、当時はマルクス主義の影響が極めて強く、マルクス主義の原理、原則を基準にしての価値論争でした(したがって、価値論争自体も、今から思うと思想的に貧弱だったのですが)。当時、私もある課題についてそれが正しいのか正しくないのかを決着することが大切であると考えていました。したがって、民主的手続過程を重視する守屋さんの訴えはまわりくどくて、差し迫った政治問題、社会問題の解決に資することは少ないと、違和感を覚えていました。
そんな政治的雰囲気のなかで、守屋さんが一人、ボサボサの髪で、ヤジを受けながら(声が大きいのは民主青年同盟系と全共闘系の学生です。)、自分の考えを演説していました。。心なしか、なにか少し寂しそうな感じでした。
でも、今になって考えると、丸山真男の思想を真に受けて実践し、民主青年同盟派と全共闘派が大きな勢力を持っていたなかで、学生自治会の自治会長の選挙まで出た、守屋さんの行動は意義があったと思います。
守屋さんは、その後、どこで何をしておられるのか。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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