何が仏の教えか?

仏教

2023年6月28日の日経新聞に「終末はガンジスの聖地へ」に次の文章がありました。

インド人の約9割はヒンドゥー教徒だ。ヒンドゥー教徒は一般的に輪廻転生、つまり生まれ変わりを信じている。肉体は滅びるが魂は永遠不変であり、魂は服を着替えるように肉体を変えていく。そして、現世の幸不幸は前世の行為の結果だとされ、現世での行為が来世の幸不幸を左右する。

 運命を進んで受け入れ前向きに生きていく指針を輪廻転生観は我々に与えてくれる。インドで生まれた仏教やジャイナ教も輪廻転生観を前提に教義が形成されている。

 しかし、一つの生命体が消滅した後、又生まれ変わり生命体として連続するということはにわかに考え難いです。一度生まれて死ねばそれで終わってしまい、生まれ変わる等ということはあり得ないと考える方が常識的です。ただし、普通の人間にとって、一度死んだらそれで終わりで後には何も続かないというのが本当のところは真実であっても、この真実を受け入れることはできないので、死んでも魂は残るとか、生まれかわるとか思い込むことになります。

 本来は、人間として取るべき態度は一度死んだらそれで自分の命は永遠に終わりとという真実をありのまま受け入れることが大切だということになります(本当のことを受け入れてあきらめる)。しかし、これを受けれることは一般の人にとってはとても難しいことです。

 この点に関して、金剛般若経は、スブーティ長老がブッダに、「どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保つべきですか。」と質問したことに対するブッダの答えを記録しています(中村元、紀野一義 訳注 般若心経・金剛般若経 岩波文庫 43~45頁)。

(現代訳)

 およそ生きもののなかまに含まれる限りの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの(卵生)、母胎から生まれたもの(胎生)、湿気から生まれたもの(湿生)、他から生まれず自ら生まれ出たもの(化生)、形のあるもの(有色)、形のないもの(無色)、表象作用のあるもの(有想)、ないもの(無想)、あるものでもないもの(非有想)、無いものでもないもの(非無想)、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらありとあらゆるもの(皆)を、わたしは《悩みのない永遠の平安》(無余涅槃)という境地に導き入れなければならない。・・・(以下、略)・・・

(漢文書下し文)

 あらゆる一切衆生の類、もしは卵生、もしは胎生、もしは湿生、もしは化生、もしは有色、もしは無色、もしは有想、もしは無想、もしは非有想、もしは非無想なるもの、われ、皆、無余涅槃に入れて、これを滅度せしむ・・・(以下、略)・・・

 このブッダの発言のうち、「形のあるもの(有色)、形のないもの(無色)、表象作用のあるもの(有想)、ないもの(無想)、あるものでもないもの(非有想)、無いものでもないもの(非無想)、」という発言は、人間が死んだ後に残ると考える魂自体の存在性と連続性を徹底的に否定するものです。なぜなら、表象作用というのは魂の作用に外ならないからです。しかも、ブッダは、表象作用のあるもの(有想)、ないもの(無想)、あるものでもないもの(非有想)、無いものでもないもの(非無想)を、《悩みのない永遠の平安》(無余涅槃)の境地に入れるというのですから、魂の存否、作用に拘束されることから完全に解放されなければならないと説いています。

 こうした、ブッダの発言から、仏教は、輪廻転生観を前提としているかもしれませんが、輪廻転生観を乗り越えて生きることを教えとしていることは明らかと思われます。増一阿含経にも、「是の時ナンダ比丘、閑静の処に在りて、自ら修剋し。族姓子の髪を剃髪し出家学道するところ無上の梵行を修め、生死已に尽き梵行已に立ち、所作已に弁じて、更に復けず座上において阿羅漢を成ぜり」と、輪廻転生しなくなった状態を賛美しています(国訳一切経 阿含部 9・10 大東出版社蔵版 281頁 など、多数箇所)。スッタニパータにも「蛇の毒が(身体に)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が蛇が旧い皮を脱皮して棄てるようなものである。」とある(中村元訳 ブッダのことば 岩波文庫 11頁)。

 このように、輪廻転生観は科学的には真実と思われませんし、輪廻転生すると思って生活するのは誤りと思われます。ただし、ちょっと生きて行くのが苦しいかも知れませんね。これが、「何が仏の教えか?」に対する私の回答です。

名古屋弁護士 伊神喜弘

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