恋歌一
(548)秋の田の穂の上を照らす稲妻の光の間にも我や忘るる
秋の田のいねほのほの上を照らす稲妻の光っている一瞬間の間も、私はあなたを忘れようか、忘れはしない
※ 古今和歌集が編纂されたのは、西暦905年で、今から約1100年前のことです。「秋の田の穂の上を照らす稲妻の光」で暗闇がパッと一瞬、田圃が明るくなるのを見たときの感動と表現は、現代の私たちと全く変わらないと思います。1100年前の日本も、今と同じように、水田が広がっており、そこに稲が植えられていたのです。
恋歌三
返し 業平朝臣
(646)かきくらす心の闇に惑ひにき夢現とは世人定めよ
私だって、まっ暗な心の闇で、夢だか現実だか、判断ができなかった。夢か現実かの判断は、世間の人よ、定めてくれよ。
題しらず 詠人しらず
(647)むばたまの闇の現は定かなる夢にいくらもまさらざりけり
暗やみの中での現実は、はっきりした確かな夢と比較して、何ほどもまさっていないことよ。
【解釈と文法】
○むばたまの-「やみ」の枕詞
○闇の現-やみの中で起こった現実。男女がひそかに会った現実をいう。
○定かなる夢に-相手に会うというはっきりした夢と比べると。「に」は比較の標準を表す格助詞。
※ 古今和歌集は、巻第一から巻第二十の20巻から構成されており、そのうち巻第十一から巻第十五の5巻は恋歌です。この2首は、この中で、男女の性の悦びが、赤裸々に歌われている和歌だと私は思いましたので、紹介しておきます。
ただし、646の業平朝臣の歌については、少し作為的な感じがします。というのは業平朝臣は、美貌の持主で、多情多感な生涯を送ったと伝えられているそうですが、そのためか性の悦びの表現も陳腐化している気配があります。紀貫之は古今和歌集の序文で、業平朝臣の歌について、「在原業平の歌は、意趣深くて余情があるが、表現する語句が不足である。ちょうど花盛りが過ぎてしぼんだ花が、花の艶麗さがなくて、ただほのかなにおいだけが残っているような趣を持っている。」と批評しています。
これに比較して、647の歌は、おそらく女性が歌ったと思いますが、新鮮な驚きと感動が表現されています。
以上、金田一京介、橘誠 共著「古今和歌集の解釈と文法」明治書院刊より
私は今古今和歌集を読んでいますが、一つ驚いていることがあります。それは、ひらがなで漢字混じりの文章ですが、現代の私たちの使う文章とほとんど変わらないことです。感性も変わらないです。特に、548番の「秋の田の穂の上を照らす稲妻の光の間にも我や忘るる」という和歌で、これらの点が確認できます。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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