大乗起信論について

仏教

大乗起信論は、4乃至5世紀にインドの馬鳴菩薩によって著作され、550年頃似始めて漢訳されたと言われている。その著述の動機について、すでに教典で仏教の教えについては詳しく説いてあるはずなのにどうして更に大乗起信論を書いたのかとの疑問に対して次のとおり答えている。

 人々の能力や実践程度は一様ではないし、教えを理解する条件は別々である。仏陀の生存中は仏陀の肉声から真の教えを理解できたが、仏陀の入滅後になると、それはかなわない。教典を僅かに聞いただけで教えを理解する者がいる一方、教典の教えを自分の力では理解することができずに、詳しく説明した書籍を読んでやっと理解できる者がいる。しかし、そもそも長い書籍を読むこと自体が煩わしいと思って、ダラニなどのように短い文句で多くの意味を含む簡単な文章を希望する者もいる。このような中で、私は、仏陀の深い教えを短く要約してみようとするものである。そして、大乗起信論は、仏陀の根本的な教えを解説し、人々が正しく理解し間違いのないようと願い、大乗修行の正道としての止観の修行法を提示し、また、止観の修行法に堪えられない心弱き人々に対しては阿弥陀仏を念じるという方法を説明するというのである。止観というと分かりにくいが、座禅と公案のことである。

 いまから、1500年も前に、仏教の教えをわかりやすく説明しようとする馬鳴菩薩の気概には感心させられる。大乗起信論を岩波文庫の現代訳で読んだが、確かに、止観の修行法や阿弥陀仏信仰の説明も分かりやすい。

 しかし、大乗起信論の最後の叙述には感心できない。それは、「もしもこの『起信論』の教えを誹謗し、信じない者があれば、その人がうける罪報は、たとい無量劫を経てもなお、大苦悩を受けるほどである。それであるから、衆生はこの教えを仰ぎ信じるべきであり、決して謗ってはならない。」という一文である。大乗起信論は仏陀の教えをわかりやすく解説した著作であるはずであるのに、そぐわない。そんな脅しをしなくてもいいのではないか。なぜ、こんなことを書いたのだろう。せっかくの名著が台無しである。

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