今回の話は少し難しいです。なぜ難しいかというと、先ず、話をする私自身が大乗起信論のいいたいことを正確に理解していない可能性があることです。次に話す言葉が日常的にわかりやすい言葉に言い換えて話せないからです。第三にこの本がもともと難しいことをいっているからかも知れません。これらを前提として話を聞いてください。
大乗起信論は、著作の動機の一つを、仏教修行の正道としての止観の修行法を提示して、無信心な凡夫たちの心の欠陥を克服するように仕向けるためとしています(宇井伯寿・高崎直道訳注 大乗起信論 岩波文庫 174頁参照)。止観という言葉の意味は分からない人がいると思われますが、私は、おおざっぱに、自分の姿勢を正して(通常は座禅の姿勢をとって)、静かに真実を考察することと理解しています。
止観を修行すると十種の功徳があり、そのうちには、①諸魔、悪鬼によって恐怖させられない、②一切の疑念と、誤った探求心や観察心がなくなる、③憂い、悔悟の心を離れ、生じ流転中にあっても、勇敢に努めて倦まない、等があるとしています(同書 280、281頁参照)。いずれにせよ止観の修行はある人間が生きている間に為される行為であって、死亡すればその時点で止観による修行は終了します。
大乗起信論は、以上の止観の修行を説くに先だち、一切諸仏が悟りに向けて、発心し修行して歩みを進める実践過程を説明しています(分別発趣道相という章です。)。先ず凡夫を想定したうえその凡夫が、人を殺さない、人の物を盗まないなどの善行を行い、生死輪廻の苦を嫌って、悟りを求める気持ちを起こします。こうして一万回生死を繰り返すと、もう凡夫に後戻りすることがなくなり(不退)、発心して悟りの完成を目指すことになります。この例示として、以下のとおりの八相成道が説明されています(同書 258,259頁からの引用)。
(1)〔悟りの直前の最後の生をこの娑婆世界で享けるべく〕兜率天から退下する
(2)〔白象にのって魔耶夫人の〕胎中に入る
(3)〔魔耶夫人の〕胎中で生育する〕
(4)〔ルンビニーにおいて魔耶夫人の〕胎から生まれ出る(仏誕)
(5)〔父王の王宮カピヴァッツから、悟りを求めて〕出家する
(6)〔6年間修行の後、ガヤーにおいて〕悟りを実現する(成道)
(7)〔ベナレスの鹿野苑において、はじめて法を説いて以来、45年間〕法を説き続けて衆生を教化すること(転法輪)
(8)〔80歳にして、化縁完了して、クシナーラーの地において〕大いなる死のときを迎える(入於涅槃)
大乗起信論は、この分別発趣道相という章の後に、凡夫の修行のあり方、具体的には先に述べました止観を修行について詳しく説明しています(修行信心分という章です。)。
私は、ここに大乗起信論の論旨の大きな矛盾を感じます。それは、一切諸仏が悟りに向けて、発心し修行して歩みを進める実践過程が極めて時間的に長期間であり、一万回も生死を繰り返さなければならないとしていることです。そしたら、凡夫が生きているときに(その長さは長くて100年です)止観を修行をする意味が一体どこにあるのかということです。人間は生まれる前に生きていたということは考えにくく、また一旦死んだらそれで人生は終了するはずだからです。一切諸仏が悟りに向けて、発心し修行して歩みを進める実践過程を説明(分別発趣道相)と凡夫の修行のあり方、具体的には先に述べました止観を修行の説明(修行信心分)とは、一方は生死一万回の人生があり、一方はせいぜい100年の一回限りの人生であり、両立しません。
この点を文献は説明しているかと、数冊見てみましたが、衛藤即応著「大乗起信論講義」(仏教聖典講義刊行会)の以下の記述以外は説明はありませんでした(411頁)。少し難しいですが、凡夫の修行のあり方止観の修行の位置づけについて、大要、以下のとおり説明しています。但し、この説明でも私は納得していません。
分別発趣道相は仏教という組織を理論的に論述したものであるが、仏教の対象者は誰かというと凡夫衆生である。凡夫衆生は仏教の組織を示されることによって、信仰を起こして修行をなし、信を確立するのであり、信を確立すれば分別発趣道相に説かれた方法にしたがって活動を開始することになる。
この衛藤即応著「大乗起信論講義」の説明によると、ある凡夫が悟りを求めて止観の修行をして死亡したとき、その後も「一切諸仏が悟りに向けて、発心し修行して歩みを進める実践過程」が存在することになります。しかし、ある人間が死亡した後に、なお、その人間と連続性、一体性をもった生(具体的には人間でなければならないはずです。)が存在することは少し考えにくいはずです。
もう一つ、一切諸仏が悟りに向けて、発心し修行して歩みを進める実践過程の説明(分別発趣道相)が、常識的に納得し難い点もあげておきます。大乗起信論は、例示として、八相成道を取り上げていますが、八相成道はお釈迦様の悟りに至る過程の物語です。ところが、一切諸仏が悟りに向けて、発心し修行して歩みを進める実践過程(分別発趣道相)は一万回の生死を繰り返す必要がありますので、私たちの知っているお釈迦様は、一万回の生死の正に、最後の生の享受者であったことになります。それでは、その前の9,999回の生は一体どこで、連続性と一体性をもって展開されたのでしょうか。この点は大乗起信論は何も答えていません。
私の考えは、余り大きなことを考えても、その教えが本当のことかどうか確認できないので、小さなことでも、確かな教えが大事だと思います。例えば、次のような教えです(中村元訳 ブッダのことば-スッタニパータ- 岩波文庫)。
蛇の毒が(身体に)広がるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して棄てるようなものである。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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