今回はロマンのある話をします。といっても、ほとんどが引用ですが。
(2014年7月2日(水)の日経新聞「私の履歴書 ラタン・タタ」より)
私の半生を振り返る前に、タタ一族とグループの起源について少し話しておこう。
タタ一族は古代ペルシャで栄えたゾロアスター教徒の子孫である。イスラム教の隆盛に伴い、10世紀に祖国を追われた教徒の一部が船に乗ってインド誓願にたどり着き、やがて定住するようになった。
これらはペルシャを意味する「パルシー」と呼ばれ、カースト制度に組み込まれることなく自由な活動を許されてきた。経済的に成功する者も多く、今でもインド国内で約6万人が助け合いながら強固な共同体を形成している。
有名な言い伝えがある。
当時、現地を支配するマハラジャは異教徒の定住に難色を示していた。ミルクをなみなみと注いだ器を指さし、「よそ者がこの地に住む場所はない」と追い返そうとした。
するとパルシーの長老が、その器に砂糖をサラサラと注ぎながらこう訴えたという。「ご覧ください。私がいくら砂糖を加えてもミルクは一滴も落ちません。我々はこの砂糖のように社会に完全に溶け込み、人々に利益をもたらしてみせます。」
社会貢献や倫理を重んじてきたタ・グループの経営理念を理解するうえで、この逸話は示唆に富むものだ。
さて、私の曾祖父にあたる創業者ジャムシュトジー・タタは1839年にインド西岸ナプリサリに生まれた。その父は綿、香辛料、茶などを中国と取引する貿易商。父の仕事を手伝った後、29歳で独立する。
出発点となったのはインド綿花を加工する紡績工場。英国ランカシャーで技術を学び、英国製に負けないインド誠意の木綿を生産。中国や日本、中東に輸出することで巨万の富をお築いた。其れが今日のタタ・グループの礎となる。
ジャムシュトジー・タタは製鉄、水力発電所、化学教育を軸にした産業振興構想を提唱したほか、ムンバイに「タージ・マハル・ホテル」も開業。やがて「インド産業」の父と呼ばれた。
息子2人のうち、長男がその意志を引き継いで2代目会長に就任。次男は慈善活動や美術品収集などに精を出し、マハトマ・ガンジーの独立運動のスポンーにもなる。この次男が私の祖父である。
ゾロアスター教とは古代ペルシャ(今のイラン)で栄えた宗教です。その後イスラム教の勃興により、7世紀以降には滅びてしまいました。それが今でも続いているというのはロマンです。ゾロアスター教もイスラム教も、私はよく説明する力がありません。そこで、大学受験参考書である、有高巌著 世界史精講(池田書店 1963/08/15)説明文もあげておきます。
(ゾロアスター教)
前6世紀(?)にいたというゾロアスターは、善悪2神による二元的宗教を起こした。善神は生命・光明・正義・幸福を掌り、悪神は死・暗黒・邪悪・禍害を起こし、両系統の神々が常に相争うているが、人々が善神を信じて善行を積めば、遂に平和な天国に迎えられると説いた。教典はゼンドヴェスタといい、神殿もなく、一切の偶像を用いないが、善神の火を拝むので拝火教といい、又善神の名によってマズダ教とも称した(同書 30頁)
(イスラム教)
マホメットは、25歳で貿易商の未亡人カディジャ(当時40歳)の婿となり、シリヤに遊び(シリアに行くのは2度目であった)平和な生活を営んだ。感受性の強い少青年の頃の孤独生活から、結婚後にも不安の念を禁じがたく、遂に神の愛を求めて40歳のころメッカ郊外にあるヒラ山上の洞窟に籠り、瞑想の後、セム系人伝統の一神アラーの下にいた天使が来て啓示を得たと称し、神の預言書としての新宗教を作り上げ(西暦610年の頃)、家族や知人に説示し、4年後の後一般に宣布した。イスラム教の宣布である。
イスラムとは「神に服従する」の意。マホメットはシリアその他を歴遊していた間にユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教等について学び知ったので、それらを参考にしてアダム・ノア・アブラハム・モーゼ・キリスト及び自己を神の命じた預言者としてあげた。しかし、その中で彼(=マホメット)を最後の最大の預言者とない、モーゼの五書、ダビデの詩編、キリストの福音書等は皆神の啓示の一部に過ぎないとした。彼の信仰の根本は宿命的なもので、生老病死や栄枯盛衰等は各人に定まった運命であるとなし、神やマホメットの為に死んだ者は必ず天国に救われ再生できるとして、信者に強い信仰心を植え付けた(同書 169頁)。
名古屋弁護士 伊神喜弘
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