はじめに――幼いころから聞いていた小島地蔵の話
「われ、子供の守り神とならん。」
江南市和田町には、昔から小島地蔵尊についての言い伝えがあります。
私は、この小島地蔵の話を幼いころから聞いて育ちました。
それは、江戸時代のキリシタン禁制にまつわる話でした。
キリシタンとして捕らえられた親子が、この地域で処刑されることになり、その親子が最後の別れをした場所に、後の世の人々が供養のために地蔵尊を建立した――。
私は、子供のころ、そのように聞いていました。
そして、その小島地蔵尊では、年に一度、供養祭が行われていました。
私も子供のころ、その供養祭に参加したことを覚えています。
現在でも、そのお堂は残っています。
今回、あらためてこの文章を書くにあたり、現地のお堂に掲示されていた「伝承」を読む機会がありました。
そこに記されていた話は、私が幼いころから聞いていたものとは、少し違っていました。
しかし、二つの話には共通するものがあります。
それは、この土地に暮らしてきた人々が、遠い昔にこの地で起きた出来事を忘れず、亡くなった親子のために祈り続けてきたということです。
1.お堂に掲示されていた「小島地蔵尊」の伝承
江南市和田町地区の墓地にある阿弥陀様のお堂には、令和2年に掲示されたと思われる「小島地蔵尊」の伝承が貼られていました。
そこには、次のような趣旨のことが記されています。
「われ、子供の守り神とならん。」
小島地蔵尊は、和田村から般若村に向かう旧街道の東側、田圃の上の高台に祀られ、地域の人々の信仰を集めていたとされています。
そして、和田村の口碑として、次のような話が紹介されています。
江戸時代の寛文年間、和田勝佐村でキリシタンの取り締まりが行われ、当地の小島で捕らえられたキリシタンの親子が、役人によって引き離された。
後に、この親子を供養するため、小島に地蔵尊が建立された。
また、一説には、その親子は遠く九州の天草から流れてきたキリシタンの信徒だったとも伝えられている――。
さらに、この伝承では、親子がこの土地に土着したものの、役人によって捕らえられ、子供が病気で倒れたとされています。
そして、その子供が亡くなる際、
「子供の守り神となろう。」
と言い残したと伝えられています。
後世、地元の人々はこの親子を地蔵尊として祀り、キリシタンの菩提を弔ってきたとされています。
現在では、子供の夜泣きなどにも御利益がある地蔵様として伝えられているようです。
2.小島地蔵尊があった場所
小島地蔵尊が祀られていた場所についても、私には子供のころからの記憶があります。
私が育った家のすぐ後ろには、東から西へ細長く続く田圃がありました。
幅はおよそ200メートルほどだったと思います。
現在のような住宅地ではなく、私が子供のころには、一面の田圃が広がっていました。
この土地について、昔は木曽川の支流が流れていた河川敷だったと聞いていました。
その細長い田圃を挟むように、南側と北側には土地が高くなった場所がありました。
南側には畑が広がり、そこに人々の住居がありました。
そこが、かつての和田村です。
一方、北側には、昔は東西に長く林が続いていました。
そして、その林の北側にあったのが般若村です。
現在では、それぞれ愛知県江南市の和田町、般若町となっています。
私が子供のころに見ていた風景は、現在とはかなり違っていました。
しかし、土地の形や道の位置などを思い返すと、昔の村の姿を想像することができます。
3.私が幼いころから聞いていた、もう一つの伝承
私が聞いていた小島地蔵の話は、お堂に掲示されていた伝承とは少し異なっています。
私が聞いていた話では、江戸時代にキリシタンの取り締まりが行われ、この地域で捕らえられたキリシタンは、般若村の方で処刑されることになっていたということでした。
そして、処刑されるために連れて行かれる途中、田圃を渡る手前で、家族との最後の別れをすることが許されたというのです。
そこは、私が育った家から西へ約150メートルほどの場所でした。
村人たちは、処刑されるキリシタン親子に同情した。
そして、その親子を供養するために、最後の別れが行われた場所に地蔵尊を建立した。
それが、小島地蔵尊である――。
私は、そのように聞いていました。
4.子供のころに参加した「供養祭」
この話が、単なる昔話として私の記憶に残っているわけではありません。
私が小さいころ、その場所では年に一度、供養祭が行われていました。
私も、その供養祭に参加しました。
子供のころの私は、キリシタンとは何なのか、江戸時代とはどのような時代だったのか、なぜその親子が捕らえられたのか、といったことを深く理解していたわけではありません。
ただ、
「昔、ここでキリシタンの親子が処刑されることになった。」
「その親子をかわいそうに思った村人が、ここに地蔵様を建てた。」
そのように聞いていました。
そして、毎年、その場所で供養が行われていました。
子供だった私にとっては、それが地域の中にある一つの風景でした。
しかし、歳月を重ねて振り返ってみると、そこには非常に大きな意味があったのではないかと思います。
5.二つの伝承には、共通するものがある
お堂に掲示されていた伝承と、私が幼いころから聞いていた伝承。
細かな部分には違いがあります。
例えば、
- 親子がどこから来たのか
- どのように捕らえられたのか
- どこで最後の別れをしたのか
- 地蔵尊が建立された直接の理由
などについて、伝わっている内容には違いがあります。
しかし、私は、どちらが「正しい伝承」なのかをここで決める必要はないと思っています。
なぜなら、口碑や伝承というものは、人から人へ語り継がれる過程で、少しずつ形を変えていくものだからです。
大切なのは、その細部が完全に一致しているかどうかだけではありません。
二つの伝承に共通しているのは、
この土地で亡くなった親子を、後の人々が忘れなかったということです。
そして、その人々のために地蔵尊を建立し、供養を続けてきたということです。
6.「われ子供の守り神とならん」という言葉
この伝承の中で、私が特に心に残るのは、
「われ、子供の守り神とならん。」
という言葉です。
この言葉が実際にその子供によって語られたものなのか、それを歴史的事実として確認することはできません。
しかし、この言葉が長い間、地域の人々によって伝えられてきたことには意味があると思います。
亡くなった子供が、後世の子供たちを守る。
そういう物語として、この地蔵尊は地域の人々の心の中に残ってきたのでしょう。
そして現在でも、子供の夜泣きなどの際にお参りする地蔵様として伝えられています。
悲しい出来事を、ただ悲しい出来事として終わらせるのではなく、
「この子が、後の子供たちを守ってくれる」
という祈りに変えていった。
そこに、昔の人々の優しさを見ることができるように思います。
7.「史実」と「伝承」は違う
この話を書くにあたって、もう一つ大切にしておきたいことがあります。
それは、歴史的事実と地域に伝わる伝承は、同じものではないということです。
江戸時代にこの地域で実際にどのようなキリシタンの取り締まりが行われたのか。
その親子が本当に天草から来たのか。
実際にどこで捕らえられ、どこで処刑されたのか。
そして、小島地蔵尊がいつ、誰によって建立されたのか。
これらについて、現在残されている資料だけから、すべてを確定することは容易ではありません。
したがって、この記事では、伝承を歴史的事実として断定するつもりはありません。
ここで紹介しているのは、あくまで、
地域に伝えられてきた口碑と、私自身が幼いころから聞いてきた記憶
です。
しかし、史実として確定できないからといって、伝承に価値がないわけではありません。
むしろ、なぜそのような話が地域に残ったのかを考えることに、伝承を知る意味があるのではないでしょうか。
8.村人たちは、なぜ地蔵を建立したのか
仮に伝承の細部に違いがあったとしても、一つのことは想像できます。
それは、昔のこの地域の人々が、亡くなった親子を「忘れてしまう」のではなく、何らかの形で記憶にとどめようとしたということです。
地蔵尊を建立する。
供養する。
毎年、お参りする。
そして、その話を子供たちに伝える。
こうして、一つの出来事が次の世代へと伝わっていきます。
私自身も、その「次の世代」の一人でした。
そして、子供のころに聞いた話が、何十年もたった今でも記憶に残っています。
9.地域の記憶を残すということ
現代の私たちは、記録を残すためにさまざまな方法を持っています。
写真があります。
動画があります。
インターネットがあります。
文章も簡単に保存できます。
しかし、昔の人々には、現在のような記録手段はありませんでした。
それでも、人々は、
「あの場所で、昔こういうことがあった」
と語り継ぎました。
それが「口碑」となり、「伝承」となって残っていきました。
もちろん、語り継がれる中で、話が変化することもあります。
しかし、そこには、その地域の人々が何を大切にしてきたのかが表れている場合があります。
小島地蔵尊の伝承も、そうした地域の記憶の一つなのだと思います。
10.子供だった私が、今になって思うこと
子供のころの私は、毎年行われる供養祭に参加しても、その意味を深く考えてはいませんでした。
そこに地蔵様があり、大人たちがお参りをしている。
自分も一緒にお参りする。
それが当たり前の風景でした。
しかし、長い年月が過ぎた今になって思うのは、
地域の人々が、昔の出来事を忘れずに祈り続けてきたということ自体が、大切なことだったのではないか。
ということです。
私は弁護士として、日々、法律や裁判に関わっています。
法律は、文章として残ります。
判決も、記録として残ります。
しかし、人間の社会には、法律や公的記録だけでは残らないものがあります。
人から人へ伝えられる記憶です。
その記憶が、地域の歴史を形づくっていくのだと思います。
おわりに――小島地蔵尊を、次の世代へ
小島地蔵尊については、私が幼いころから聞いてきた話と、現在お堂に掲示されている伝承とで、細かな違いがあります。
どちらが完全に正しいのか、私には分かりません。
しかし、私は、それを無理に一つにする必要もないと思っています。
大切なのは、
この地域に、昔から一つの親子の物語が伝えられてきたこと。
そして、
その親子を供養するために地蔵尊が建立され、地域の人々が長い間、祈りを続けてきたこと。
さらに、
その話が、私のような子供にも伝えられてきたこと。
なのだと思います。
「われ、子供の守り神とならん。」
この言葉が本当にその子供によって語られたのかどうかは、分かりません。
しかし、この言葉を後世の人々が伝え続けてきたことには、確かな意味があると思います。
一人の子供の死を、後の子供たちを守る存在として記憶する。
そこには、亡くなった人を忘れないという、人間の素朴な祈りがあります。
私もまた、幼いころにこの話を聞いた一人として、今度は文章にして残しておきたいと思いました。
いつの日か、私の文章を読んだ誰かが小島地蔵尊を訪れ、
「ここには、昔からこんな話が伝えられていたのか」
と思ってくれれば、それだけでも、この伝承を残す意味があるのではないでしょうか。
江南市和田町に残る小島地蔵尊。
そこには、土地の歴史だけではなく、そこで生きてきた人々の記憶と祈りが、今も静かに残っています。
名古屋弁護士 伊神喜弘

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