はじめに――なぜ、被告が「判決を受け入れた」ことに心が動いたのか
2026年6月22日、旭川地方裁判所は、北海道旭川市で2024年4月18日に当時17歳だった女子高校生を橋から川に転落させて死亡させたとして、殺人、監禁、不同意わいせつ致死などの罪に問われた被告人に対し、検察官の求刑どおり懲役27年の判決を言い渡しました。
被告人は、それまでの裁判において、監禁については認める一方、殺人については「殺意はなかった」「橋から落下させていない」と否認していました。実際、裁判では、被告人が被害者の身体に直接触れて橋から突き落としたのかどうかについて、証拠上、断定できない部分もありました。
それにもかかわらず、旭川地方裁判所は、被害者が被告人らから「死ね」「落ちろ」などと繰り返し怒鳴られ、命令に従って落下する以外の選択をすることが困難な精神状態に追い込まれていたと認定しました。そして、被害者が自ら落下したのか、誤って落下したのかという落下の具体的経緯を断定できないとしても、被告人らの行為は殺人の実行行為に当たると判断しました。
そして、判決から2日後の6月24日、被告人側が判決を受け入れ、控訴しない方針を固めたことが報じられました。その後、検察側・弁護側の双方が控訴せず、懲役27年の判決は7月7日に確定しました。
私は、この「判決を受け入れる」という被告人の選択について、少し心を動かされました。
なぜ、そう感じたのか。
それについて、少し考えてみたいと思います。
1.被告人には、なお「争う余地」があったのではないか
この事件について、私は被告人の主張が正しいと言っているわけではありません。
また、裁判所の判断が誤っていると言っているわけでもありません。
ここで考えたいのは、あくまで、被告人が判決を受け入れるという行為そのものに、どのような意味があるのかという問題です。
仮に、被告人が主張していたとおり、被害者の身体に少しも触れておらず、直接、橋から突き落とした事実がなかったとします。
その場合、少なくとも被告人側からは、
「私は被害者を橋から突き落としていない」
と主張する余地があります。
また、
「『死ね』『落ちろ』などと言ったことは認めるが、それだけで被害者の自由意思を完全に奪ったとはいえない」
という主張も考えられます。
橋の欄干から川に落ちれば生命を失う危険性が極めて高いことは明らかですが、理屈の上では、被告人の要求を拒否することも、そこから離れることも、あるいは助かる可能性を探ることも考えられます。
少なくとも、弁護側から見れば、そこに殺人罪の成立を争う論理的な余地があると考えたからこそ、裁判において殺人罪を否認したのでしょう。
実際、検察側と弁護側は、この点を大きく争いました。
2.それでも裁判所は「殺人の実行行為」を認めた
旭川地方裁判所は、被害者が橋から落下した具体的な経緯について、被告人が直接身体を押したことまで断定できないとしながらも、被告人らの一連の行為を重視しました。
被害者は監禁され、服を脱がされ、橋の欄干に座らされ、「死ね」「落ちろ」などと繰り返し怒鳴られていました。
裁判所は、被害者がそのような状況の中で、命令に従って落下する以外の選択をすることが困難な精神状態に追い込まれていたと判断しました。
そのため、
「被害者が自ら落下したのか、誤って落下したのか」という一点だけで殺人の実行行為の有無を判断するのではなく、そこに至る被告人らの行為全体を評価した
というのが、この判決の重要な点であると考えます。
そして、旭川地方裁判所は、被告人の行為が殺人の実行行為に当たるとして、殺人罪の成立を認めました。
3.「判決を受け入れざるを得ない」という言葉だけでは説明できないもの
このニュースを見たとき、私はある人に、
「旭川事件で、被告人が判決を受け入れたことは良かったと思う」
と話しました。
さらに、
「懲役27年ということになれば、刑期満了時には51歳になる。それだけ長い刑になる」
という趣旨の話をしました。
すると、その人は、
「判決で決まったことだから、受け入れざるを得ないでしょう」
と言いました。
確かに、そのとおりです。
裁判所が判決を言い渡し、控訴しなければ、その判決が確定します。
しかし、私はそれだけではないと思います。
被告人は、それまでの裁判で、
- 被害者を橋から落としていない
- 殺意はなかった
- 殺人罪は成立しない
という趣旨の主張をしていました。
ところが、裁判所はそれを認めず、殺人罪の成立を認定し、懲役27年を言い渡しました。
その判決に対して、なお控訴して争うことも、制度上は可能でした。
それにもかかわらず、被告人は判決を受け入れることを選択しました。
私は、そこに意味があると思うのです。
4.自分の言い分を最後まで通すことと、判決を受け入れること
もちろん、被告人が自分の無実を主張すること自体は、刑事裁判において認められた重要な権利です。
自分がやっていないと考えることについて、最後まで争うことは、決して悪いことではありません。
むしろ、刑事裁判では、国家が個人に刑罰を科す以上、被告人が自らの権利を主張することは当然に保障されなければなりません。
だからこそ、今回の事件について、
「裁判所の判決に従うのだから当然だ」
とだけ考えてしまうと、私は少し違うように思います。
なぜなら、
自分には自分の言い分がある。
それでも、
裁判所が証拠と法に基づいて示した判断を受け入れる。
という選択には、単なる「仕方がない」という諦めとは異なる側面があるからです。
自分に有利な主張を続けることができるにもかかわらず、判決を受け入れる。
その行為は、少なくとも、社会の中で裁判という制度が持つ意味を認める行為でもあると思います。
5.共同体は、いつも正しいわけではない
もっとも、ここで一つ重要な問題があります。
それは、
「共同体が決めたことだから、常に正しいのか」
という問題です。
もちろん、そうではありません。
共同体の意思が、いつも正しいとは限りません。
国家も、社会も、裁判所も、間違うことがあります。
歴史を振り返れば、多くの人々から支持された判断が、後世から見れば明らかに誤っていたということもあります。
したがって、
「共同体が決めたことには、何でも従わなければならない」
という考え方には、重大な危険があります。
では、人は共同体の判断に誤りがあると思ったとき、どのように生きるべきなのでしょうか。
この問題を、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、極めて印象的な形で私たちに残しています。
6.ソクラテスと「共同体」の問題
ソクラテスは、アテネの法廷で裁判を受けました。
彼は、若者を惑わせ、神々を認めないなどとして告発されました。
ソクラテスは、自らの潔癖を主張し、自分はそのような罪を犯していないとして弁明しました。
しかし、市民によって構成された裁判によって有罪とされ、死刑の評決を受けることになります。
ここで興味深いのが、友人クリトンとのやり取りです。
クリトンは、ソクラテスに脱獄を勧めました。
しかしソクラテスは、それを拒みます。
ソクラテスにとって重要だったのは、
「自分が正しいと思っているかどうか」
だけではありませんでした。
人は共同体の中で生きています。
その共同体の法律や制度が誤っていると思うなら、それを説いて改めさせる努力をすべきである。
しかし、それができない場合には、その共同体の定めたものに従うべきではないか。
ソクラテスの姿勢には、そうした問題意識があります。
もちろん、ソクラテスの考え方をそのまま現代社会に当てはめることはできません。
しかし、
「共同体に誤りがあるとき、人はいかに生きるべきなのか」
という問題は、現在においても消えていません。
7.共同体の「正しさ」と「不条理」
ソクラテスが私たちに残した問題は、単純な「法律には従え」という教訓ではないと思います。
むしろ、
共同体は必要である。しかし、共同体は間違うこともある。
という、二つの矛盾した事実をどう考えるかという問題ではないでしょうか。
私たちは、一人だけで生きているわけではありません。
家族、学校、会社、地域、国家など、さまざまな共同体の中で生活しています。
その共同体には、一定のルールがあります。
ルールがあるからこそ、人々は互いの行動を予測でき、社会生活を維持することができます。
しかし、そのルールが常に正しいとは限りません。
だからこそ、
共同体を尊重することと、共同体を批判することは、必ずしも矛盾しない
のだと思います。
8.旭川事件の判決受け入れから考えること
今回、私が被告人による判決の受け入れに心を動かされたのは、まさにこの点です。
私は、被告人の行為を肯定しているわけではありません。
また、被告人が自らの主張を取り下げたことだけをもって、その人格を評価するものでもありません。
私が考えたいのは、
自分に言い分があり、それを最後まで争うこともできる状況において、それでもなお共同体が示した判断を受け入れるという行為には、社会的な意味があるのではないか
ということです。
裁判は、国家と個人との間の紛争を解決する制度です。
そこでは、被告人が自分の言い分を主張し、検察官がそれに反論し、裁判所が証拠と法律に基づいて判断します。
そして最終的に判決が言い渡されます。
その判決に納得できない場合には、控訴という制度があります。
しかし、控訴することなく判決を受け入れることも、一つの選択です。
それは、
「私は自分の主張を持っている。しかし、この社会の裁判制度が出した判断を、最終的には自分も受け入れる」
という意思表示にもなり得ます。
9.判決を受け入れることは「諦め」なのか
「判決で決まったことだから、受け入れざるを得ない。」
確かに、法律制度だけを見れば、そのとおりです。
しかし、人間の行為として考えたときには、もう少し違う見方もできると思います。
人間には、最後まで自分の主張を貫く自由があります。
その自由があるからこそ、あえて自分の主張を置いて、判決を受け入れるという行為にも意味が生まれます。
もし、
「どうせ判決で決まるのだから、仕方なく従う」
だけなら、それは単なる制度への服従です。
しかし、
「自分には自分の考えがある。しかし、裁判所が示した判断を受け入れ、この判決を自分の人生の一部として引き受ける」
というのであれば、そこには別の意味があるように思います。
私は、今回の判決受け入れを、そのようなものとして考えたいと思いました。
10.私たちは、共同体の中でどのように生きるのか
私たちは、先祖の時代から今日まで、
「共同体は重要である。しかし、共同体は不条理な判断をすることもある」
という難しい問題を考え続けてきました。
ソクラテスも、その問題に直面しました。
そして現代の私たちも、同じ問題から完全に逃れることはできません。
裁判所の判決についても同じです。
裁判所は、証拠と法律に基づいて判断します。
その判断が、すべての人にとって完全に納得できるものになるとは限りません。
だからこそ、裁判には控訴という制度があります。
しかし、最終的に確定した判断を社会の一員として受け止めることも、法治社会を成立させるためには重要です。
おわりに――判決を受け入れるという選択
今回の旭川事件について、私は、事件そのものの重大さとは別に、被告人が判決を受け入れたという一点について考えさせられました。
自分の主張を続けることもできた。
争う制度も残されていた。
それでも、判決を受け入れることを選択した。
それは、単に「判決で決まったことだから仕方がない」ということだけでは説明できない、人間の意思決定の問題でもあると思います。
もちろん、共同体が常に正しいわけではありません。
共同体の判断が誤っているときには、それを批判し、改める努力も必要です。
だからこそ、ソクラテスの問題提起は現代にも意味を持つのだと思います。
共同体を尊重するとは何か。
共同体の不条理に対して、私たちはどう生きるべきなのか。
そして、
自分の考えと共同体の判断が異なるとき、その判断を受け入れるとはどういうことなのか。
旭川事件における被告人の判決受け入れは、こうした古くて新しい問題を、私たちに考えさせる出来事だったのではないでしょうか。
私は、被告人が判決を受け入れたことについて、その行為自体には、共同体の一員として生きることの意味を考えさせるものがあると思います。
そして私たちもまた、共同体の重要性と、共同体が持つ不条理との間で、どのように生きるべきなのかを考え続けていかなければならないのだと思います。
名古屋弁護士 伊神喜弘


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